禅に親しむ 仏教・禅のことば
仏教というと苦しい修行をして悟りを開くとか難解なお経を連想して、一見一般社会の生活とは全く関係がないように思われますが、実際には私たちが生きていく中での悩み苦しみに対して生きる糧となり救い助けてくれるお教えです。
その仏教、禅にまつわる言葉、お話を私なりに分かりやすくこれから皆様にお伝えしてゆきたいと思います。
そこで最初に次の禅語を紹介致します。
~日々是好日~ にちにちこれこうじつ
掛軸や色紙にもよく書かれていて皆様もご存じの言葉だと思います。文字通り「一日一日毎日が尊く有難い一日である。」という意味になります。 でもこの「好日」が実に難しい。はっきり言えば私達がいくら切に願っても毎日が夢の様に楽しいはずもなく、また平和で平穏無事な日々が永遠に続くことも有り得ません。
言ってみれば人生には雨の日もあり風の日もあり苦労の連続であると言えます。
しかしそんな人生でも諦めるわけにはいきません。
いかなる困難に遭っても現実から目をそらさず真摯に受け止め、悪縁であってもそれを好縁だと捉えていく。それこそが「好日」だと思います。 ピンチはチャンスという言葉もあるように、捉え方次第で大きく違ってきます。今の苦労は必ず将来に生かされてきます。
日々新鮮な気持ちで迎える一日一日が積極的なものになるように。自らの感性で良いことも悪いことも全て味わい尽くすというくらいの気概を持って過ごせていけたら幸せなことだと思います。 合掌
令和三年 八月吉日
~少 欲 知 足~ しょうよくちそく
多欲の人は多く利を求むるが故に苦悩もまた多し
少欲の人は求めなく欲なければ則ちこの患いなし
不知足の者は富むといえどもしかも貧しし
知足の者は貧ししといえども而も富めり
『仏遺教教』 お釈迦様臨終の際 最後の教え
あれこれと欲の深い人はそれだけ苦悩も多い。その反対に欲が少ない人は心に憂いが少なくてすむ。
満足することを知らない人はたとえ裕福になったとしても、いつも心は満たされないまま貧しい。自分の身の丈を知り感謝の念を持つ人は一見生活は質素に見えても、常に心は満たされている。
仏教では無欲であること、禁欲することを説いていません。「煩悩即菩提」という言葉があるように、欲望そのものは人間の根源的なエネルギー(生命力)であり、生きてゆく上で必要不可欠なものです。つまり欲望全てを否定するのではなく自分自身でその欲望とうまく付き合い抑制してゆくことを説いているのです。欲望が生きる活力であると同時に苦悩の主原因であるという表裏一体の道理をしっかりと捉えることが肝要なのです。
私たちは、こうしたいああもなりたい、これもあれもほしいと、一つ満たされると又さらに上の欲求へとどんどん欲望は膨らんで、どこまで行っても心は満たされないまま余計に不平不満だけが募っていきます。人間は求めだすと際限がありません。でも一体欲望を少なくして心安らかに暮らしていくにはどうしたらよいのでしょうか。
結局、足るを知る(知足)ということに繋がるのでしょう。自分はこれで十分なんだと心の底から納得できること。それは常に自分にとって本当に必要で大切なものは何なのか、逆に自分にとって不必要で無駄なこととは何なのか。さらに言えば私たちにとって本当の豊かさとは何なのか。と永遠の課題として何度も何度も見つめ直し自分自身に問い続けていくことではないでしょうか。 合掌
令和三年 十月吉日
~ 中道 ~ ちゅうどう
お釈迦様は出家した後、六年間の苦行を行いました。
その苦行とは不眠不休で何日間も飲まず食わずを続けるという、大変苛烈極まるものでした。
しかし、大した修行の成果も見い出せぬまま 只、身も心も衰弱していくばかりでした。
そんな時ふと、近くで農作業中の農夫がこう歌っているのを聞きました。
琴の弦は張りすぎてはぷつっと切れてしまう
又 張らないとだらんとして音は響かない
これを聞いたお釈迦様ははっと気づいたのでした。
これまでの苦行は欲望を封じ込めようと、ただ徒に心身を痛め続けてきたが、やがては病気になり死に至るだけだと。 しかし出家以前のように享楽にふける生活に戻ったとしても又虚しいだけ。
そして これからは、その両極端に走らない真ん中の道をゆっくり歩もう
とする「中道」の考えに至ったのでした。
「中道」 言い換えれば、いい意味での「良い加減」でしょうか。
自分にとっての心身のバランスの取れた「良い加減」の状態。
その自分にとっての「良い加減」を見つけることは実際そう簡単にはいきません。
まるで、やじろべえが揺れながらも真っ直ぐ立とうとするように、必死になってその重心をもがきながら、工夫しながら探し出してゆく過程。それこそが人生における修行と言えるかも知れません。 合掌
令和4年 正月吉日
~帰家穏座~ きかおんざ
禅語で 自分が一番心が落ち着ける場所に帰り、どっかりと座り寛いで過ごす。という意味になります。
仕事や学校で疲れてもちゃんと帰る家がある。ということは当たり前のようですが、とても幸せなことだと思います。
動物の帰巣本能の様なもので、家庭というのはここから出て行って又ここに戻ってくる。言わば人が生活してゆく上でとても重要で最初の基盤となる場所です。
しかしこの家庭というものは必ずしも一筋縄ではいかず常に平穏無事というわけにはいきません。 皆さん大抵そうだと思います。 喧嘩もします。 お互いが遠慮なく言い合える間柄は喜びを共感しあえることも多い反面、時として意見がぶつかり合うことも少なくありません。
しかしながら親子間でも又夫婦間でも、良いことも悪いことも一緒になって経験し、大変なことも共に乗り越え成長して行けるのが家庭だと思います。少し大げさに聞こえるかも分かりませんが、ほっと落ち着ける場所であると同時にお互いが刺激しあって切磋琢磨する、お互いを高めあえる修練の場であるとも言えるのではないでしょうか。
家庭は社会の縮図のようにも思います。もっとも理想なのかもしれませんが、よい家庭が増えていけば、それがどんどん広がってやがては社会全体の平和、安寧に繋がってゆくかもしれません。
「家庭」を「築く」という言い方をしますが、単なる集合体の「家族」ではなく、「家庭」とはじっくりと築き上げてゆかなければならないものだということを実感します。
いま、自分はそれが出来ているだろうか。・・・と日々反省する毎日です。 合掌
令和4年 2月吉日