(由緒)
口伝に依りますと戦国時代、豊臣秀吉公が柴田勝家との戦いのあと、越前府中(今の福井県越前市)の金剛院に立ち寄り、そこの住職 亀洲宗鶴和尚から、そばとお茶の接待を受けました。
やがて打ち解け和やかに談笑しているとお互いの故郷が同じ尾張中村の庄であると分かり大いに意気投合しました。その後も親交を深めてゆき、やがて秀吉公が天下を取り大阪城を築城。
それに伴い大阪の町を形成してゆく中で寺町も整備する事となりそこで旧知の仲である亀洲宗鶴和尚に声をかけ大阪に招勧しました。
そして自らが開基となり龍海寺を建立したのでした。こうして龍海寺は大阪城鎮護火防の寺として火の守護として尊崇されている秋葉三尺坊大権現を祀り今もなお太閤秀吉公のご遺徳を偲び毎年祥月命日の八月十八日にあわせて盆せがき会を厳修しております。
(曹洞宗の教え)
インドのお釈迦様は出家してから六年間、苦行を続けられました。
しかし苦行の限界を感じそれを捨て菩提樹の下に静かにただじっと坐り続けたのです。そして八日目の早朝、明けの明星を見た時、忽然として迷いから離れ大いなる悟りを得ました。
時を経て日本の鎌倉時代、道元禅師様が現われ、そのお釈迦様の菩提樹下での坐禅こそが「正伝の仏法」(お釈迦様から脈々と受け継がれてきた正しい教え)であると高らかに唱えられました。
坐禅に専念する事「只管打坐」を旨とし、さらに「行住坐臥」日常生活の行い全てにおいても「仏心」お釈迦様と同じ心を持ち合わせていると自覚し、「仏の姿」を現わしてゆく事が、真の信仰の姿であると説かれました。
曹洞宗の修業はまさに、お釈迦様にならい、道元様にならい、それに少しでも近づいて行こうとする実践行です。ですので荒行の様な特別な事は致しません。
それは決して現実社会から離れたものではなく、現代に生きるすべての人々にとって生きる指針となり得る教えなのです。